生野銀山の歴史
[2018年3月2日]
ID:351
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生野銀山は、天文11年(1542年)に本格的な採掘が始まりました。織田、豊臣、徳川それぞれの直轄鉱山として栄え、明治元年(1868年)には政府直轄となり、その後は皇室財産にもなった大鉱山です。銀や銅などの鉱物を数多く産出してきましたが、昭和48年に閉山。現在では当時の模様を再現した観光施設として一般公開しています。鉱石を掘っていた坑道を散策すると岩肌には鉱脈が見られ、電気仕掛けの人形が作業風景を再現しているなど、今となっては珍しい産業のことを楽しみながら学習できます。
開坑は大同2年(807年)と伝えられていますが、詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明です。室町時代後期の天文11年(1542年)、当時の但馬守護であった山名祐豊が銀山を目的に生野に進出。生野城を築いて、鉱業を主体とする政務を掌握しました。為政15年間の採銀量は莫大な量に達したものと思われます。なお生野城は、大正時代に撤去されるまで、代官所や生野県庁舎として地域の中心的役割を果たしました。
平成6年に行われた代官所跡の発掘調査では日本で最古の銀製錬遺跡が見つかっています。その後経営は、竹田城主太田恒氏から、織田、豊臣、徳川氏へ移管。直轄事業として銀山開発が盛んに行われ、最盛期を迎えました。江戸時代には、最高位の銀山に対する名称「御所務山」が与えられ、これを祝して山車を引き回しました。山神祭の伝統行事として行われていた「御見石」引きは、これにちなんだものでした。
明治元年(1868年)には、貨幣制度の改革にともなう材料確保の必要から、政府の直轄鉱山になりました。朝倉盛明やフランス人技術者セアン・フランソワ・コワニエらによって、フランス式レンガ積建物や鉱山関連物資の輸送用道路「生野銀山寮馬車道」(生野―飾磨間)が建設され模範鉱山として整備されました。明治22年(1889年)から宮内省に所属。御料局生野支所と名称が変更されました。明治29年(1896年)、政府から三菱合資会社に払い下げられ、はじめて民間事業として操業します。その後は「山はね」などの老化現象や、地下資源の枯渇による品位の低下などが目立つようになり、昭和48年(1973年)に閉山されました。以後、鉱山資源を生かした地域観光開発に着手。旧坑道を利用した坑内展示施設や資料館、生野鉱物館(生野銀山文化ミュージアム)などが建設され、現在、数多くの観光客が訪れています。
生野銀山で産出された銀は、16世紀半ばになると朝鮮の綿布や中国の絹と交換貿易されるなど、日本の代表的な輸出品として海外からも注目されるようになり、関西の貨幣経済や文化に大きな影響を与えてきました。
また「江戸の金づかい、上方の銀づかい」と言われるように、生野銀山は銀が主体の鉱山と考えられてきましたが、実際には、産出する鉱石に占める金の割合は、佐渡金山の金の比率よりも高いことがわかっています。
坑内の図
昔の坑内は人一人が腰をかがめてやっと通れる程度の狭くて低い堀場であった。そして坑内で働く人達を称して下財(地下の財宝を掘る人)または芸才といった。
御所務山の図
代官所から掛役人2名が派遣され昼夜詰め切りで取締を行い、掘り出した鉱石をあらため、税金を徴収した。中央では坑内で使う梯子を準備している。
素吹の図 真吹の図
製錬の方法で灰吹銀での一過程、右の方は「素吹」で銀銅の荒吹が残り、左の方が「真吹」で銅鉛に熔けた銀分を取り出す。
江戸時代になると生野銀山には「御所務山」という最高位の鉱山に対する名称が与えられ、これを祝して、山神祭に山車を引き廻した。これが「御見石」引きと呼ばれる。
生野銀山には3つの資料館が併設されています。江戸時代の鉱山立体模型をはじめ、鉱山の様子を詳しく描いた絵巻物や、鉱山の器具類などが展示されている「鉱山資料館」をはじめ、江戸時代、幕府に献上する上納銀ができるまでの製錬工程を電動人形で再現した「吹屋資料館」、生野銀山の歴史文化の紹介や貴重な鉱物標本などが展示されている「生野鉱物館(生野銀山文化ミュージアム)」があります。
開庁時間 月曜日から金曜日の午前8時30分から午後5時15分まで (土、日、祝日および12月29日から翌年1月3日までは除く)