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竹田城の歴史
竹田城の歴史
竹田城築城、太田垣氏の時代
竹田城の始まりは、嘉吉年間(1443年頃)に当時の但馬守護山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされます(口碑)。その後、山名氏の重臣である太田垣氏が初代・光景(誠朝という説あり)以下7代に渡って城主を務めました。しかしながら、天正8年(1580年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による但馬攻めにより、竹田城は落城、太田垣氏も没落したと考えられています。
赤松広秀の治世
その後、羽柴秀長(城代)、桑山重晴と城主が続き、天正13年(1585年)播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が朝来郡2万石(その後2万2千石)で入城します。現在に残る石垣遺構は、広秀が城主の頃に整備されたと考えられます。また、広秀は「仁政の主君」として領民から慕われていたとされます。養蚕業や漆器産業を奨励し、現在に繋がる地場産業の礎を築きました(漆器作りは、竹田の地場産業である家具製造業の元になったと伝えられています)。他にも、近世儒学の祖とされる藤原惺窩を援助したり、文禄・慶長の役により日本に来た朝鮮の儒学者姜こうに教えを乞うなど、儒学の普及振興にも大きく貢献しました。
関ヶ原の戦い、廃城
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、当初広秀は西軍に与し丹後田辺城攻めに加わりました。その後、西軍の敗戦を知り竹田城に撤退したところ、東軍として鳥取城を攻めていた因幡鹿野城主亀井玆矩から来援要請を受け出陣、功を挙げたとされます。しかし、鳥取城攻めの際に城下町を放火したとの罪で自刃させられ、竹田城も廃城となったのです。
関連年表
年号 | 西暦 | 竹田城跡に関する出来事 | 全国の主な動向 |
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永享3 | 1431 | 山名持豊、竹田城構築に着手する。(口碑) | |
嘉吉3 | 1443 | 竹田城完成。太田垣光景が初代城主となる。(口碑) | |
享徳4 | 1455 | 山名持豊、播磨の赤松則尚を攻める。太田垣光景、先陣として参加する。(『嘉吉記』) | |
寛正6 | 1465 | 太田垣景近、第2代城主となる。 | |
応仁1 | 1467 | 応仁の乱が勃発。 | |
〃2 | 1468 | 細川軍、朝来郡に侵攻する。景近二男・宗近(新兵衛)、夜久野にてこれを迎え討つ(『応仁記』)。 | |
文明1 | 1469 | 応仁の乱の戦火が京から地方に広がる。 | |
〃9 | 1477 | 応仁の乱が終わる。 | |
〃11 | 1479 | 太田垣宗朝、第3代城主となる。 | |
延徳4 | 1492 | 太田垣俊朝、第4代城主となる。 | |
大永1 | 1521 | 太田垣宗寿、第5代城主となる。 | |
天文7 | 1538 | 太田垣朝延、第6代城主となる。 | |
〃11 | 1542 | 生野にて銀の採鉱が本格化。山名祐豊がこれを支配する。 | |
〃12 | 1543 | 鉄砲の伝来。 | |
弘治2 | 1556 | 朝延、祐豊から銀山の領有権を奪取する。 | |
永禄3 | 1560 | 桶狭間の戦い。 | |
〃12 | 1569 | 木下藤吉郎秀吉の但馬侵攻。十日間で生野~此隅山城までの18城が陥落(『益田家什書』)。 | |
〃13 | 1570 | 太田垣輝延、第7代城主となる。 | |
天正1 | 1573 | 毛利軍・伯耆より因幡へ入国。山名祐豊・太田垣・垣屋・田結庄、毛利軍へ降伏(『兵庫県史』)。 | 織田信長が室町幕府を滅ぼす。 |
〃3 | 1575 | 丹波黒井城主荻野直正、竹田・有子山城を急襲し、これを奪取(『吉川家文書』)。 | |
〃4 | 1576 | 信長が安土城築城を開始。 | |
〃5 | 1577 | 羽柴秀吉、播磨平定後、小一郎秀長をもって但馬を攻める(『信長公記』) | |
〃6 | 1578 | 秀吉、再び小一郎秀長を竹田城に入れる(『信長公記』)。 | |
〃8 | 1580 | 秀吉の但馬侵攻(『信長公記』)。太田垣氏による竹田城支配は終焉を迎え、桑山修理太夫重晴が城主となる。所領10,000石(『播翰譜』)。 | |
〃10 | 1582 | 本能寺の変。信長が死去。秀吉が山崎の合戦で明智光秀を破る。 | |
〃11 | 1583 | 秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。 | |
〃13 | 1585 | 重晴、和歌山城主として移封される。赤松広秀が城主となる。所領は20,000石(『廃絶録』) | |
〃18 | 1590 | 文禄の役で広秀、朝鮮半島へ渡り「もくそ城(晋州城)」を取り囲む。 | 豊臣秀吉が天下統一を果たす。 |
文禄1 | 1592 | 文禄の役。(1592~96) | |
〃2 | 1593 | 広秀帰国。 | |
〃3 | 1594 | 広秀、伏見城普請に参加。この時、所領は22,000石。 | |
慶長2 | 1597 | 慶長の役で広秀、再び朝鮮半島へ渡る。 | 慶長の役。(1597~98) |
〃3 | 1598 | 秀吉死去により、広秀帰国。 | 秀吉死去。 |
〃5 | 1600 | 関ヶ原の役で広秀(西軍)、丹後田辺城を攻める。敗戦後、鳥取城攻めにも加わるも、大火の責を問われ、鳥取・真教寺にて自刃。竹田城も廃城となる。 | 関ヶ原の戦い。 |
〃8 | 1603 | 徳川家康が江戸幕府を開く。 | |
〃19 | 1614 | 大坂冬の陣。 | |
元和1 | 1615 | 生野代官所の支配下に置かれる。 | 大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡。一国一城令を制定。 |
〃2 | 1616 | 家康死去。 | |
慶応3 | 1867 | 大政奉還。 | |
明治1 | 1868 | 久美浜・生野(明治2年)、豊岡県(明治4年)に属する。 | |
〃9 | 1876 | 兵庫県に編入される。 | |
昭和14 | 1939 | 竹田町役場の所有となる。 | |
〃18 | 1943 | 国史跡に指定される。 | |
平成21 | 2009 | 国史跡の追加指定を受ける。 |