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朝来市出身の芸術家

ページID:0001081 更新日:2023年1月6日更新 印刷ページ表示

芸術

あさご芸術の森美術館

芸術の森美術館

 多々良木ダムの真下に位置し、広大な彫刻公園のある美術館。朝来市佐中出身の彫刻家淀井敏夫氏(1911-2005)の生涯作品を常設展示するほか、さまざまな企画展やイベントを開催しています。周辺の森には、自然に溶け込むように27基の彫刻が設置されており、散策やサイクリングも楽しめます。
電話 079-670-4100

郷土が生んだ日本を代表する芸術家

-彫刻家- 淀井敏夫

淀井敏夫氏

 明治44年に朝来市佐中で生まれた淀井氏は、昭和8年に東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を卒業。昭和11年の第23回二科展に「仕事着の青年」を初出展。昭和23年の第33回二科展では、出品作品「老人胸像」で二科会特待賞を受賞。
 昭和40年(1965年)には東京芸術大学教授に就任。昭和48年の第58回二科展への出品作品「砂とロバと少年」で、内閣総理大臣賞を受賞。昭和53年に東京芸術大学教授を退官、同大名誉教授となります。
 長年の創作活動と芸術発展への功績により、昭和58年に勲三等旭日中綬章を受賞、平成13年には文化勲章を受章されました。
 主な作品に「飛翔」などがあります

淀井氏作品
飛翔

-彫刻家- 日下寛治

日下寛治氏

 和田山町林垣出身。昭和8年の日展初入選を皮切りに日彫賞など数多くの賞を受賞。日本美術家連盟会員、日本彫刻倶楽部会員(昭和8年)、日本彫刻会会員(昭和22年)として文展4回、日展22回の入選を重ね、日展無鑑査彫刻家として多くの作品を制作し活躍しました。
 寺谷橋左岸の「友愛」の像など多くの作品を郷土に残しています。

日下氏作品
友愛

生野三画伯

明治近代画壇へ大きな功績を残した生野町出身の白瀧幾之助、和田三造、青山熊治の三画伯は、郷土が誇る偉大な文化人です。

白瀧幾之助(明治6年~昭和35年)

白瀧幾之助氏

 生野町奥銀谷で生まれ、父は浜沖之助、鉱山師でした。小学校を卒業後、工学士を夢見て上京しますが、明治23年、和田三造の兄、正造の勧めもあり画家になることを決意。東京美術学校を卒業後、明治37年から7年間欧米にわたり、イギリス水彩画の影響の強い滞欧作を数多く残しています。
 また、留学中に知り合った三井高精を助け、多くの新進画家の作品を「三井コレクション」に加え、後進の育成にも力を注ぎました。
 代表作は「稽古」明治30年。

白瀧氏作品
「稽古」1897年
東京芸術大学所蔵

和田三造(明治16年~昭和42年)

和田三造氏

 生野銀山鉱業所の勤務医や校医を勤めた文碩とその妻秀の四男として、生野町で生まれました。
 明治42年から大正3年まで文部省美術留学生として渡欧、帰国後は文展、帝展の審査員を務めるかたわら、染色図案を中心とした装飾工芸の研究にも力を入れました。昭和33年、文化功労者として表彰されました。
 代表作「南風」は、明治という時代を象徴する記念碑といわれています。明治40年。

和田氏作品
「南風」1907年
東京国立近代美術館所蔵

重要文化財指定(2018年10月31日)

青山熊治(明治19年~昭和7年)

青山熊治氏

 生野町口銀谷生まれ。大正3年~11年まで西欧各地での修業後、大正15年第7回帝展に、500号の大作「高原」を出品。特選と帝国美術院賞を受賞して脚光を浴びました。
 ルノワールやセザンヌの影響を受け、寒色系の統一された色調と力強い描写で、モニュメンタルな大画面を構成しました。生野町に帰郷中、九州大学壁画がほほ完成した昭和7年、46歳の若さで急逝、短い生涯をとじました。代表作の一つ「高原」大正15年。

青山氏作品
「高原」1926年
兵庫県立美術館所蔵

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