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明治維新の魁 生野義挙

ページID:0001565 更新日:2023年1月6日更新 印刷ページ表示

はじめに

 歴史の町、生野は千余年の間に数多くの史実を残しながら、栄枯盛衰を重ねて来ました。銀山の発見以来、中国山脈の山並みに囲まれた小さな集落は「生野を制する者は天下を制する」の諺の通り、その時代時代の為政者(山名・織田・豊臣・徳川)から庶民に至るまでが熱い眼差しで生野に注目しました。そして、長い年月の間には生野を舞台として多くのドラマが繰り広げられました。
明治初年の生野町絵図(市指定文化財)

生野義挙のあらまし

生野義挙碑 文久3年(1863)10月、日本の歴史に残る事件がこの地で起こりました。「生野義挙」または「生野の変」と言われる事変です。この事変は270年続いた徳川幕府の政治に不満を抱き、改革を図ると共に、欧米諸国の脅威から国を守ることを志す人々が、但馬各地の農民と一緒になってこの地方における幕府の拠点である生野代官所を占拠して挙兵をしたのが始まりです。
 しかし、期待した同志の応援も到着せず、加えて内部の意思不統一と、周囲の状況が不利となったため、再起を期して3日間で破陣し生野から脱出しましたが、参加した同志並びに農民幹部の多くは途中において捕虜後、処刑されるなど生存者はごく僅かでした。
 生野義挙はこのような経過で短期日の間にあっけなく終わりましたが、この事変が魁となって4年後には明治維新の政変が成功し、新しい日本の誕生となりました。

※写真は生野義挙碑(市指定文化財)

生野で義挙を行った理由

なぜ生野の地で義兵を挙げたのでしょうか。

  1. 但馬は都(京都)に近く昔から勤皇の志を持つ人々が多くおりました。
  2. 但馬には以前より農兵が組織されており、その目的は、北海防備に備えるためで、朝廷も幕府もこの目的達成のため農兵組織を許していたので但馬の有志は正々堂々と農兵を組織することが出来ました。この農兵と一緒になって義兵を挙げようとしたことは生野義挙の大きな特色であります。
  3. 生野には徳川幕府が銀山を統括するために代官所を設けており、この代官所を占拠して討幕の気勢を上げるには格好の場所でした。
  4. 生野代官所及び生野銀山の政治力、経済力を重く考えました。事を起こすには軍用金及び兵糧が付き物ですが、当時代官所は纏まった資金や食料を持っていました。その上、銀山町には富豪が多く軍用金の調達も容易でした。
  5. 生野は、瀬戸内海に向けて流れる市川と日本海に注ぐ円山川との分水嶺であり、四方は峠に囲まれて守りやすく、攻めるに難しい天然の要害の地です。

挙兵行動

総帥が必要

澤宣嘉卿

  1. 事を起こすには総帥として推載する人が必要なので、同志の中から平野国臣、北垣晋太郎の二人が長州に行き、周防三田尻に滞在していた七卿の一人、澤宣嘉卿を説得し、長州の奇兵隊を中心とした27名の志士たちと共に船二隻に分乗し、文久3年(1863)10月2日の夜、三田尻を出航しました。そして9日には飾磨港に上陸し、同地で大和天誅組の破陣を知りました。
  2. 志士たちは義挙の中止と決行の両論に分かれましたが主戦論に押されて11日、生野の森垣村延応寺に入り、その夜には生野銀山町猪野々の丹後屋太田次郎左衛門方に移りました。
  3. 翌12日午前2時頃生野代官所に押しかけ、これを占拠し本陣としました。この時、代官所側は救援の密使を出石藩・豊岡藩・姫路藩の各藩に派遣しました。

 ※画像は澤宣嘉卿

解散か決行か

妙見山陣備への図(生野義挙絵巻)

  1. 但馬の村々に対して20歳以上40歳までの男子は残らず、刀、槍、鉄砲等の武具を持って、生野代官所に集まるよう指示した結果、12日正午頃には2千人余りの農兵が集合しました。
  2. 出石藩では生野代官所からの救援要請を受け、13日早朝、一番手950人、二番手、三番手各133人の藩兵が出石を出発して生野に向かいました。
  3. 本陣では、出石藩出兵を知り、これを迎え撃つため、南八郎(本名 河上弥市)以下、18名が山口村に出陣し、夕刻妙見山に布陣しました。
  4. 本陣には出石藩出兵の報に引き続き、豊岡藩、姫路藩も代官所救援のため出兵したとの報が伝わり、澤総帥は残留幹部と協議しましたが、解散論、決行論の両論が沸騰しました。このままでは、諸藩兵を迎えても勝味は薄いと、各持場を守っている同志を集めて意見を聴して引き揚げる事になり、南八郎が守る妙見山には多田弥太郎が行き説得に努めましたが、南等は聞き入れませんでした。

※画像は「妙見山陣備への図」生野義挙絵巻より

生野本陣は破陣、妙見山布陣の南八郎等13名は自刀

山伏岩

  1. 多田弥太郎はその旨を澤卿に復命すると共に脱出を勧めました。澤卿はその進言をいれ、この際解散し再挙を図ることを決意し、13日夜10時頃に「各部署巡視」と称し、部下数名と共に本陣を脱出しました。
  2. その他の志士達も、13日夜半から14日早朝にかけて思い思いに生野を落ち延びました。
  3. 妙見山に布陣していた南八郎等13名は、14日午後になってから生野本陣に引き上げる為に山を下りましたが、志士達から離反した農兵達が頻りに発砲してくるので、事破れた以上無益な殺生はすまいと思って、妙見山麓の山伏岩で全員が自刀しました。
  4. 生野を脱出した志士の内、澤卿以下十数名は逃げ延びる事が出来ましたが、残る多数の志士達は、途中で討ち死にか、自刀または捕縛された後に獄死する等悲惨な最期となりました。

※写真は山伏岩(山口護国神社)

破陣の原因

農兵の訓練の不徹底

農兵取立ての指令は8月16日に発せられましたが、挙兵が10月でその間が短期間の為、訓練の暇がなく農兵とは名ばかりでありました。

農兵の無理解

二千人にも及ぶ農兵の殆どは、村役人の命ずるまま集まってきたに過ぎず、挙兵の目的を理解し、勤皇の為に「不惜身命」の精神を持って自発的に参加したものは少なかったのです。

幹部の意見の対立

10月9日飾磨港に上陸し、大和天誅組の破陣を知ってから平野国臣は挙兵を中止して、時勢を待ってからの再挙を説きましたが、南八郎等は主戦論に固執して幹部の意見が対立しました。かくて最後まで対立は解消せず、一般の士気高揚の大きな障害になりました。

勤皇各藩の応援来らず

京阪地方の同志を始め、在阪の長州藩士、因州の鳥取藩士にも密かに款を通じ義挙の際には応援の内約があったと伝えられましたが、実際には応援は皆無でありました。

生野代官所役人の機宣の処置

代官は出張の為不在でありましたが、元締め(家老)武井庄三郎は、志士一行に対して穏便な計らいを行い、銀山を戦禍から救うと共に、幕吏としていち早く密使を隣藩に派する等、機宣の処置と胆度は破陣を早める原因となりました。

平成25年は生野義挙から150年の記念の年、150年をひとつの契機として

 生野義挙については、これまでも50年、100年、130年と、その節目には、さまざまな記念事業が開催されてきましたが、平成25年は150年の記念の年となり、朝来市として初めて迎える節目の年となりました。

 今回150年をひとつの契機として、朝来市で起った新しい時代の魁となった歴史的史実を再顕彰し、市民の認識を深めながら、後世にその事蹟をつないでいくとともに、150年の記念事業を通じ、市内全域に存在する歴史文化遺産を活用して、市民のつながりを深め、新しいまちづくりにつなげていくことを目的に、「朝来市生野義挙150年記念事業検討委員会(森下恒夫委員長以下10名)」からの提案書を基に、さまざまな事業を展開しました。

生野義挙150年記念事業提案書[PDFファイル/361KB]

生野義挙150年記念式典を開催

 平成25年11月23日(土曜日・祝日)に、生野義挙150年記念事業のシンボリック行事である、記念式典を開催しました。

 また、翌日の24日(日曜日)には、墓前祭実行委員会主催による、生野義挙150年記念墓前祭が山口護国神社で開催されました。

 当日の様子は、添付ファイルを御覧ください。

記念式典の様子[PDFファイル/761KB]

墓前祭の様子​[PDFファイル/793KB]

祭文全文(墓前祭)[PDFファイル/105KB]

生野義挙150年記念式典チラシ

生野義挙特別展を開催

 生野書院では、市内に残る関連史料や市外からの借用史料などの展示を行い、生野義挙を理解する特別展を開催したほか、特別講座(全3回)も実施しました。

  • 第1回「生野の変をどうとらえるか-新史料の紹介もかねて-」
    日時 平成25年9月7日(土曜日)13時30分から
    場所 朝来市生野マインホール2階
    講師 前田 結城 氏(神戸大学人文学研究科地域連携センター員)
  • 第2回「志士たちの横顔-多田弥太郎を中心に-」
    日時 平成25年10月5日(土曜日)13時30分から
    場所 あさごささゆりホール 
    講師 石原 由美子 氏(豊岡市出土文化財管理センター)
  • 第3回「天誅組の乱とその後」
    日時 平成26年2月2日(日曜日)13時30分から
    場所 生野マインホール
    講師 舟久保 藍 氏(天誅組研究家)

生野書院へはこちら(別ウインドウで開く)<外部リンク>

朝来市親睦吟詠大会を開催

朝来市親睦吟詠大会を開催の画像 市内で活動する吟道各流派があい寄り「朝来市吟詠協会」を設立して、これまで隔年で親睦吟詠大会を開催してまいりましたが、生野義挙150年を記念し、朝来市文化協会・朝来市吟詠協会の主催で朝来市親睦吟詠大会が開催されました。
 生野義挙にちなんだ吟詠も数多く詠われ、盛況のうちに終了。詩吟の魅力や生野義挙を広く知っていただく良い機会となりました。

 日時 平成25年9月22日(日曜日)9時30分から

 場所 朝来市生野マインホール

 ※画像は市内に配布された朝来市親睦吟詠大会のチラシ

生野義挙DVDを作成-夜明けを信じた志士たち-

生野義挙DVDを作成 -夜明けを信じた志士たち-の画像生野義挙150年を機に映像DVDを作成しました。

「生野義挙」の真相を紐解く貴重な1本。

「夜明けを信じた志士(おとこ)たち」

 価格:1,000円(税込)

 ※大好評につき残数僅かとなります。

生野義挙関連グッズの作成

生野義挙関連グッズの作成の画像 生野義挙に関するオリジナルグッズ・キャラクターを制作し、式典やイベント、周知に活用しました。
 また、平成25年11月23日(土曜日・祝日)の記念式典参加者には、南八郎が長州の先輩来島又兵衛の歌を借りて制札に書きなぐった句を扇子にし、記念品としてお渡ししました。

[議論より実を行へなまけ武士国の大事を余所に見る馬鹿]

※画像は朝来市観光情報センターの義挙コーナー
(JR生野駅構内)

全国に向けた情報発信と連携、史料調査・収集

 生野義挙をより多くの市民に知っていただくために、広報「あさご」10月号に特集を組み、1月号には11月に開催した式典、墓前祭の様子を掲載しました。

 また、関係団体との連携を深めていく中で、11月23日(土曜日・祝日)の記念式典時には、山口県萩博物館特別学芸員の一坂太郎氏にご講演をいただきました。同日、奈良県五條市「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会特別理事の舟久保 藍氏にも天誅組の紹介(天誅組と生野の変)をしていただきました。

 今回の150年を機に、今後も関係団体との連携を強化していきます。

生野義挙特集(広報10月号)[PDFファイル/17.12MB]

史料調査と収集[PDFファイル/170KB]

生野義挙ゆかりの地の紹介

 平成25年11月24日(日曜日)に開催した、史跡めぐりツアーで訪れた場所をはじめ、市内や近隣市町の生野義挙ゆかりの地を紹介します。

生野義挙関連史跡[PDFファイル/1.54MB]

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